T 難聴・言語障害教育の萌芽
2.戦後の言語障害教育
戦後のほぼ同じ時期に、宮城県仙台市と千葉県市川市で、言語障害教育の芽が吹き出しました。
双方共、初めから言語障害教育を目指したのではなく、片方はローマ字教育から、片方は国語科の治療教育(読みの指導)から、言語障害教育に発展させたものでした。
(1)濱崎健治先生の歩み
昭和26年9月20日付けの読売新聞、同年11月17日付けの河北新報に次のような記事が載りました。
どちらの記事にも、記事面よりやや大きめの写真も付いているのですが、紙面の都合上、割愛してあります。
当時は、『国語・国字』の問題が大論争となっていました。現在の当用漢字の基はこの時期に作られたものです。
誰にでも読み書きができるようにと、仮名遣いを発音通りにし、漢字を易しく作り換えるだけではなく、カタカナ論者やローマ字論者などが輩出て、一大論争を巻き起こしたものです。
それと平行して、小学校からローマ字教育をすることになり、ヘボン式か、日本式か、訓令式かで、国語審議会のローマ字調査分科審議会委員の派閥争いまで起きる騒ぎでした。
昭和22年、実験学校の指定を受け、研究主任の濱崎先生は、ローマ字指導に取り組み、日本語の音を正確に書き表すヘボン式ローマ字の指導から、東北の訛り音を克服する発音指導へと移行し、昭和23年には「ローマ字を用いた東北なまり昔の矯正」と題する論文を発表しています。
当時は、東北の農村から東京を中心とする関東地方へ、卒業式の次の日から毎晩、集団就職列車を仕立てて、中学卒業生が大量に就職した時代で、中学卒業生を『金の卵』と呼んだ程でした。
ところが、その『金の卵』は、東北訛りのために不適応を起こす例が続出して、東北訛り音克服は東北人の最大の課題となりました。
濱崎先生が「ズーズー弁克服」を目指したのには、このような背景があったのです。
ローマ字指導を通した発音指導を実施してみると、一斉指導ではどうしても改善しない子が何人か出て来て、詳しく調べた結果、機質的な問題や発声発語器官の機能に問題のある子であることがわかり、個別指導の必要に迫られました。
2年間の準備期間を経て、昭和28年より『ことばの教室』を開設し、通常の学級担任のまま、放課後や夏・冬・春休みの期間中、言語障害児の指導にあたりました。
5年間の実績が認められて、昭和33年、わが国初の言語障害特殊学級が仙台市立通町小学校に設置されます。
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